|
マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(、1899年6月26日 - 1918年7月17日)は、最後のロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第三皇女。ロシア大公女。1917年の二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日にエカテリンブルクのイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって裁判手続きを踏まない殺人が実行され、家族・従者とともに19歳の若さで銃殺された。2000年にロシア正教会によって新致命者として列聖された。 第一次世界大戦中には2人の姉のように赤十字の看護師になるにはまだ若過ぎたため、代わりに病院の後援者となって負傷した兵士達を見舞った。生涯を通じて兵士に強い関心を持ち、結婚して大家族を持つことを夢見ていた。1991年にエカテリンブルク近郊で殺害された皇帝一家の遺骨が発掘されたが、欠落していた大公女の遺骨は彼女のものであるかもしれないことが示唆された。しかしながら、2007年に別の場所で欠落していた大公女の遺骨も発見され、DNA鑑定によって1918年に皇帝一家全員がエカテリンブルクで殺害されていたことが証明された。''、1899年6月26日 - 1918年7月17日)は、最後のロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第三皇女。ロシア大公女。1917年の二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日にエカテリンブルクのイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって裁判手続きを踏まない殺人が実行され、家族・従者とともに19歳の若さで銃殺された。2000年にロシア正教会によって新致命者として列聖された。 第一次世界大戦中には2人の姉のように赤十字の看護師になるにはまだ若過ぎたため、代わりに病院の後援者となって負傷した兵士達を見舞った。生涯を通じて兵士に強い関心を持ち、結婚して大家族を持つことを夢見ていた。1991年にエカテリンブルク近郊で殺害された皇帝一家の遺骨が発掘されたが、欠落していた大公女の遺骨は彼女のものであるかもしれないことが示唆された。しかしながら、2007年に別の場所で欠落していた大公女の遺骨も発見され、DNA鑑定によって1918年に皇帝一家全員がエカテリンブルクで殺害されていたことが証明された。 == 幼少期 == ロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第三皇女、ロシア大公女マリア・ニコラエヴナは1899年6月14日(グレゴリオ暦で6月26日)に皇室が例年夏の時期を過ごすペテルゴフにあるの離宮で誕生した。妊娠中のアレクサンドラは数回気絶を経験し、車椅子生活を余儀なくされていた〔。ニコライ2世は「幸せな一日:主(キリスト)は私達に三女を授けて下さった。マリー、12時10分に無事に生まれた! アリックスはほとんど一晩中寝れず、朝になると痛みが強くなった。程なくして何もかもが終わったことを神に感謝! 私の最愛の人は終日、体調が良好な様子で、赤ちゃんに母乳を与えた」と日記に書いた。ニコライ2世の上の妹のクセニア・アレクサンドロヴナ大公女もこのイベントに関心を示し、「すべてが無事に終了し、待つ身の不安が遂に終わったことの嬉しさ! けれど、息子ではなかったという失望。可愛そうなアリックス! 私達はもちろん、男の子でも女の子でもどちらでも喜んではいるのだけど」と書いている〔。 ニコライ2世の家族の絆は強かったと言われている。4人姉妹はいつも仲良しで、マリアは特に妹のアナスタシアと仲が良く、多くの時間を過ごし、1つの寝室を共用していた。姉のオリガとタチアナも2人で1つの寝室を共用しており、彼女らが「大きなペア」と呼ばれていたのに対し、下の2人は「小さなペア」と呼ばれていた〔Kurth(1995年) pp.88-89〕。4人はOTMAという合同のサインを結束の象徴として使用していた〔。 4姉妹の身位の呼称である大公女は元のロシア語では「Великая Княжна(ヴェリーカヤ・クニャージナ)」と呼ばれ、英語では最も一般的に「Imperial Highness」、最も正確には「Grand Princess」と訳された。「Imperial Highness」はただの殿下に過ぎない「Royal Highnesses」と訳された他のヨーロッパの王女よりも序列が高いことを意味していた〔Zeepvat(2004年) p.14〕。 4姉妹は刺繍や編み物を教わり、チャリティーバザーに出品するための作品を準備することが求められた〔Zeepvat(2004年) p.153〕。また、祖父であるアレクサンドル3世の代からの質素な生活スタイルの影響を受けて厳しく育てられ、病気の時以外は枕無しで固い簡易型ベッドで眠り、朝に冷水浴をした〔マッシー(1996年) p.114〕。大きくなると、簡易ベッドは変わらぬものの、部屋の壁にはイコンや絵画や写真が飾られ、豪華な化粧台や、白や緑の刺繍を置いたクッションなどが入り、大きな部屋をカーテンで仕切って浴室兼化粧室として4人共同で使用した〔マッシー(1996年) p.117〕。10代になると、冷水浴をやめて夜にフランソワ・コティの香水の入った温水のバスを使用するようになったが、マリアは色々な香水を試した末に「リラ」を常時使用するようになった〔マッシー(1996年) pp.117-118〕。4姉妹は簡易ベッドを流刑地まで持って行き、最後の夜もこのベッドの上で過ごすことになった〔ラジンスキー上(1993年) p.191〕。 1905年からニコライ2世は妻子をツァールスコエ・セローにある離宮アレクサンドロフスキー宮殿に常住させるようになり、5人の子供達は外界とほとんど途絶してこの宮殿内でアレクサンドラに溺愛されて育った〔ラヴェル(1998年) p.50〕。早朝から午後8時頃までは執務室で公務に励み、その後の時間は家族との団欒に当てることを日課としていたニコライ2世についても「国事に専念せずに家族の団欒を好んだ」という批判的な見方もあった〔植田(1998年) p.91〕。ニコライ2世一家が揃って公的の場に現れることは稀だったが、皇室内での出来事はすべて詳細に公表されており、特にマリアの弟のアレクセイが誕生して以降、一家の注目度は高まった。公的な活動や発言はすぐに写真入りの雑誌や新聞やニュース映画で報道され、その肖像入りの葉書、額縁、飾り皿は世界的なベストセラー商品となった〔ラヴェル(1998年) p.49〕。 マリア皇太后を筆頭とするロマノフ家の親戚はアレクサンドラの生活スタイルや子供の育て方を認めようとせず、長年一家との交際を避けていた。アレクサンドラの方もマリア皇太后の社交好きの生活スタイルを軽蔑していた〔ラヴェル(1998年) p.55〕。ニコライ2世の母親のマリア皇太后と彼女に似た性格の上の妹のクセニア・アレクサンドロヴナ大公女は華やかな帝都サンクトペテルブルクにとどまることを好み、離宮には滅多に顔を出さなかった。弟の中で唯一存命していたミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に至ってはほとんど一度も離宮を訪れなかった。控えめな性格である下の妹のオリガ・アレクサンドロヴナ大公女のみが唯一アレクサンドラに同情的で、一家と親しい付き合いをしていた〔。外の世界と引き離された4人姉妹にとってコサックの近衛兵や''『スタンダルト』''号の乗組員達達は数少ない気軽に話が出来る相手であった。他の人間とも接する機会を与える必要性を感じていたオリガ・アレクサンドロヴナは毎週土曜日はサンクトペテルブルクからやって来てアレクサンドラを説得し、彼女達を町に連れ出した。まず叔母と4人娘はサンクトペテルブルク行きの汽車に乗り、にて祖母のマリア皇太后と昼食をともにし、その後にオリガ・アレクサンドロヴナの邸に行ってそこで他所から来た若い人々と一緒にお茶やダンス、ゲームを楽しんだ。この若い叔母は後年に「この少女達は一分も無駄にせずに楽しんだ」と回想している〔。 同時代の人々はマリアの外見の特徴について「明るい茶色の髪と大きな青い瞳(家族は彼女の瞳を「マリーのソーサー」と呼んだ)の持ち主」と説明した〔マッシー(1996年) p.115〕。幼い頃は細身の2人の姉と違ってぽっちゃりと太って丈夫に育ったので、母親のアレクサンドラが将来の結婚を考えて体重の増加を心配し、絶望に陥っていたほどであった〔。 アレクサンドラの親友で女官(侍女)を務めたはマリアについて「素晴らしい瞳とバラ色の頬を持っていた。肉付きの良い傾向があり、彼女の美しさをやや削いでしまうかなり厚い唇を有していた」と述べている。ニコライ2世一家とともに殺害された皇室主治医エフゲニー・ボトキンの娘、タチアナ・ボトキナは「穏やかで優しい目付きをしている」と感じたという〔Kurth(1983年) p.138〕。その容貌をサンドロ・ボッティチェッリの描く天使に例えられることもあった。大叔父のウラディミール・アレクサンドロヴィチ大公はいつも明るく笑顔の彼女を「愛らしい赤ん坊」と呼んで慈しんだ〔。 マリアは穏やかな気性であったが、いたずらな一面もあり、母親のティーテーブルからいくつかのビスケットを盗んだこともあった。アレクサンドラと女家庭教師は罰として夕食抜きで早寝させることを示唆したが、ニコライ2世は「私は常に、翼が成長していくのを恐れていた。彼女が唯一人間らしさを持った子供のように思えて嬉しい」と述べてこれに反対した〔。マリアは父親が大好きだった。「パパに会わせて」と言って頻繁に「保育室」から脱出しようとした〔。1901年にニコライ2世がクリミア滞在中に腸チフスに羅患し、瀕死の状態になった時は彼の小さな肖像画に毎晩キスをした〔。 政治に強い関心を持つアイルランド出身の保母、が友人とドレフュス事件について熱く議論している間、まだ幼かったマリアが浴槽から飛び出し、宮殿の廊下を全裸で走り回ったことがあった。叔母のオリガ・アレクサンドロヴナは後年に「幸いなことに私はちょうどその時に到着し、彼女を掴み、抱えていったが、ミス・イーガーはまだドレフュスについて話していた」と当時を回想した〔。 マーガレッタ・イーガーによると、まだアナスタシアが生まれて数ヶ月の頃に姉のオリガとタチアナは「保育室」内の一角に自分達のための椅子の家を建ててマリアを召使いのように扱い、彼女を仲間外れにした。イーガーはマリアとアナスタシアのためにもう一方の端に別に家を作ってあげたが、マリアの視線は常に部屋の反対側に向けられていた。 マリアとアナスタシアはいつも同じ服を着ていた〔。2人は自分達の部屋に置かれた蓄音機を大音量で再生して一緒に曲のリズムに合わせて踊ったりもした〔。マリアは積極的で活発な妹に圧倒されがちであり、アナスタシアが歩いている人をつまずかせたり、誰かをからかったりした時に妹を制止することは出来なかったが、そのかわりにマリアはいつも相手に謝ろうとした〔。 フランス語の家庭教師を務めたはマリアは親切で温かい心の持ち主であり、彼女の姉達は「小さな太ったワンちゃん」と呼んでその性格の良さを多少なりとも利用していたと述べている。1910年にマリアはオリガに促されて、姉のオリガに彼女専用の部屋を与え、彼女がドレスの裾を降ろして長くするのを許可するように頼む手紙を母親に送った。マリアはのちに手紙を送るアイディアは自分自身が思い付いたことだと、アレクサンドラを説得しようとした〔Mironenko, Maylunas(1997年) p.337〕。 マリアにはスケッチの才能があり、左利きだったと言われている。学業には基本的に無関心であった〔。10代後半になると、英語の家庭教師を務めるを地面から持ち上げられるほどの怪力も発揮するようになった〔。思春期になると浮ついた感じになり、怠けがちで陽気過ぎるという欠点もあった〔マッシー(1996年) pp.115-116〕。月経期間になると怒りっぽくなるため、母親と姉妹達はこれを「ベッカー夫人の来訪」などと表現した〔Mironenko, Maylunas(1997年) p.463〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|